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自分用備忘録的な何か。

月に200時間の残業をしたあの頃の自分は、やはり社畜だったのかもしれないって話。

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しゅな (id:asimino)さんのエントリ

asimino.hatenablog.com

が、なんだかとても好評らしいので、自分も触発されて、酷い残業をしていた頃の話を書いてみようと思った。

死にたいくらいに憧れた、花の都大東京。

1997年。自分が就職活動に明け暮れていた頃だ。この年、長くバブル崩壊の余波に苦しめられていた日本経済が、ひょっとしたら持ち直して、就職戦線も例年より厳しいものではなくなるかもしれない、という話が新聞に書いてあった。今にして思えば、どういう根拠だったのか忘れてしまったが、とにかくそんなことが書いてあった。

自分も、「そーなんだー、そりゃ助かるな」的な軽い気持ちで就職活動をしていたのだが、そんな就活生を大事件が襲った。山一證券の破綻である。この事件のせいで、一気にその年の就職活動は厳しいものとなった。

自分は、田舎の生まれで、東京に憧れを持っていた。元々東京にある大学に通いたかったのだが、残念ながら学力が足りなかったので志望していた東京の大学には通えなかった。だから「就職は絶対に東京で決める1」と、心に誓っていた。要は、単なる田舎者だっただけなのであるが。

だが、なかなか自分の希望するような会社の面接には合格しなかった。「メンタツ」なども買って読んではいたのだが、今にして思えば就活に対する自分の意気込みも低かったように思う。

そんな中でも、いくつか内定は取れた。その中から自分が選んだのが、外食産業の中堅企業だった。ビルインタイプの専門店を経営している大阪の企業である。大阪の企業とはいっても東京に支社があり、勤務先は東京であることがわかっていた。だからこそ、この会社を選んだのだと思う。

ただ、東京で働きたいがために。

 

経営が成り立つ仕組み。

初めての就職だったので、当然他の会社のことなど知らない。上司などから「社会とはこういうものだ」と教えられれば、「なるほど、そうなのか」と、素直に信じていた。

だが、今にして思えば、あの当時のあの業界はかなり「ヤバイ」世界だった。

お店の営業時間は、11時から22時だったが、実際の勤務時間はお店が開店する2時間前の9時から、閉店作業が終わるまでの23時までの約14時間。だが、帳簿上は7.5時間しか働いた事にはなっていなかった。

何故こういう事になるのかというと、お店にはそれぞれ使える労働時間というものが決められている。それが例えば40時間だとしたら、単純計算で4時間働くバイト&パートを10人雇える計算だ。だが、実際には社員がいるので10人は雇えない。自分が実際に働いた分の14時間を計上してしまうと、残りは26時間。これでは、4時間のバイトを6人雇うのがやっとだ。だから、社員はいくら働いても7.5時間しか働いていないことにし、その余った時間をバイトを多く雇うのに使うのだ。

自分のいたお店は、レジ1人、ホール2人、盛り付け1人、厨房2人、洗い物1人の7人でピークタイムを回していた。そこに社員が自分を含めて2人入るので、バイトは5人ということになる。正直いって、社員を7.5時間しか働いてないことにしても、結構労働時間的には厳しかった。

そこで利用されるのが「有給休暇」だ。どういうことかというと、その日は社員を休んだことにしてしまうのである。そうすれば、社員の分の7.5時間が浮く。その時間をバイトを雇うのに回すのだ。

今では外食産業にも労働組合が出来たりして、当時とは随分と環境が変わっている。だが、当時は、こういう事をするのが当たり前で、自分もその「テクニック」が当然のものだと思い込んでいた。

 

居酒屋業態で味わった残業200時間。

最初に配属されたお店で2年ほど働いた後、別のお店へと異動の辞令があった。そこは、その会社始まって以来の居酒屋業態のお店で、なんと赤坂へ出店するのだという。営業時間は11時から朝の4時まで。はじめに聞いていた話では、昼の社員と夜の社員の二頭体制で回していくのだという。

だが、行ってみて驚いた。深夜営業が決まったのがオープンの2日前だったらしく、夜中のバイトがまるでいなかったのだ。

最初のうちは、他のお店から応援の社員が来てくれていたので良かった。だが、それもオープン1週間くらいの間でしか無く、その後は自分たちでどうにかしなければならなかった。

だが、そう簡単にバイト&パートが集まるわけもなく、暫くの間はそのお店の社員3人が、開店から閉店まで出ずっぱりになってしまった。だが、帳簿上は7.5時間しか働いていないことになっているのだ。しかも、オープン直後で忙しく、殆ど休憩は取れなかった。

朝の9時から夜中の4時までぶっ続けで働く。しかも、閉店作業が終わる頃はまだ始発の電車も来ていない。家に帰ってもすぐ出勤の時間が迫ってくるため、その時期はお店に寝泊まりしていた。ご丁寧に毛布が用意されていたのだ。

閉店作業を含めると、一日20時間働いたこともあった。だが、その頃の自分には「それが当たり前だ」という考えしかなかったため、その状況を一度たりとも異常だとは思わなかった。

後から、帳簿上の7.5時間以外の残業時間を計算してみたら、月の残業時間(時間外労働時間)は200時間を超えていた。その月は、20連勤の後に2日くらい休んだだけで、あとはずっとお店に「住んで」いた。

 

地元に帰って「普通」に驚く。

さすがに、就職してから3年も経つと、自分の体もだんだん辛くなっていて、なんだか自分はおかしなことをしているのではないかと感じ始めた。

そんな時、浦安の店長就任の話が自分に舞い込んできた。その年は何故かやたらと会社に評価されて「年間優秀社員」などというものにも選ばれていた。おそらく、赤坂店の立ち上げに尽力したからだろう。だが、どんなに評価されても店長になる気は自分にはなかった。

そして、会社に辞表を提出し、地元へ帰ってきた。

その2ヶ月後くらいに、新聞広告に入ってきた募集を見て、今の会社に中途採用された。その会社は、日本人なら誰もが知っている会社が親会社で、長年自分の地元に貢献してきた大企業でもあった。

まず、入ってみて驚いたのが、「働いた分だけお金がもらえる」という点だった。いままでは、いくら働いても7.5時間分の給料しかもらえなかったのだ。月に残業を200時間したところで、手取りは18万円いかなかったのである。それなのに、新しい会社では6分ごとに残業代が計算されて支払われるという。ぶっ飛んだ。

それと、「有給休暇を取っていい」というのにも驚いた。今まで、有給休暇はバイトを休ませるために使う仮初めの存在だったのだ。それが、年間40日も支給されるという。何もかもが驚きの連続だった。

就職して最初の企業が、今で言う「ブラック」気味の会社だったから、それが当たり前だと思わされていたが、だが、よくよく考えて見れば、地元の企業の方が「普通」なのだ。

今にして思えば、あの外食産業での経験は、若さに任せて無理やり乗り切っていただけだった。さすが定着率10%未満と言われるだけのことはあるな、と今では思う。

「普通」を知ってしまった今の自分には、とても以前のような無茶な働き方は出来ないだろう。自分は、冒頭のしゅな (id:asimino)さんのエントリのように心身衰弱というところまでは行かなかったが、本当によく病気にならなかったものだと、不思議に思う。

若さって凄いけど、怖いな〜