読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

日本の全てのサッカーファンは、「日本サッカーの父」デットマール・クラマー氏に感謝すべきという話。

サッカー 日本代表 Jリーグ

f:id:potatostudio:20150920182338j:plain

デットマール・クラマー氏、死去。

9月17日、「日本サッカーの父」と讃えられるデットマール・クラマー氏が亡くなった。

www.goal.com

享年90歳ということで、いわゆる大往生なのだろうが、それでもやはり惜しい人を亡くしたな…と思う。

最初にこのニュースを聞いたのは、テレビのニュース(どのニュース番組だったかは忘れた)で報じられた時だった。思わず「え!? 嘘!!」と叫んでしまったくらい衝撃的だった。

自分はマラドーナ世代なので、例えば釜本さんが現役でプレーしていた所などは見たことがない。なので、クラマー氏の功績は伝え聞いた事しか知らない。それでも、とても大きな喪失感を味わっている。それだけ、クラマー氏の存在は日本サッカーにとって、そしてそれを愛する自分にとって大きかったと言える。

いつかはこの日が来るのはわかっていたが、ついに来てしまったか…という感じだった。

 

クラマー氏来日。

クラマー氏が日本サッカーに関わることになったのは、1964年の東京オリンピックがきっかけだった。

その4年前、自国開催のオリンピックで好成績を出すために代表強化に尽力していた日本サッカー協会は、外国人コーチの招聘を検討していた。当時の会長であった野津謙はその推進者であり、彼が西ドイツサッカー協会にコンタクトを取って派遣されてきたのが、西ドイツユース監督などを務め、フランツ・ベッケンバウアーなどを見出したクラマー氏だった。

f:id:potatostudio:20150920184843j:plain

上記の写真は、自分が2001年に購入した「日本サッカー80年の歩み」というDVDだが、その中で長沼健元日本サッカー協会会長がクラマー氏について語っている部分がある。

それによると、当時コーチとしてやってきたクラマー氏が選手にやらせたのは、徹底した基本練習だったようだ。当然、「全日本(当時は日本代表という呼称ではなかった)」としてのプライドがあった選手達は反発した。だが、実際にやってみようとすると誰一人言われた通りにできなかったと言う。当時の日本サッカーのレベルはその程度だったのだ。

4年間クラマー氏の指導を受けた全日本は、東京オリンピックのグループリーグでアルゼンチンを破るなどして2位通過し、準々決勝で当時隆盛を極めていた東欧勢の一角、チェコスロバキアと対戦し、4-0というスコアで敗れている。だが、その戦いぶりは日本国民の心をつかみ、空前のサッカーブームを巻き起こすことになる。

その後、クラマー氏は西ドイツに帰国するが、その際に5つの提言を残した。

1.強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2.コーチ制度の確立。
3.芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
4.国際試合の経験を数多く積むこと。
5.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。

どれも、現在では「普通に」行われていることばかりだが、当時はその普通の事すら何一つできてなかったのが、日本サッカーの現状だったのだ。

 

アマチュア時代の黄金期。

クラマー氏帰国後、翌年には日本サッカーリーグが創設された。そして、日本サッカー協会はクラマー氏の提言を1つずつ実現していく。中には、93年のJリーグ創設以降にならなければ実現できなかったこともあるが、アマチュア至上主義だった日本サッカーに出来る最大限の努力をしたと言ってもいいだろう。

その努力は1968年のメキシコオリンピックで花開く。

長沼健監督、岡野俊一郎コーチの体制で臨んだ日本は、スペイン、ブラジル、ナイジェリアが同居する厳しいグループに入ったが、見事にスペインに次いで2位通過をし、準々決勝でフランスを倒しベスト4進出を成し遂げる。

準決勝では、やはり当時世界最強の一角であったハンガリーに5-0の完敗を喫するが、その後の3位決定戦で開催国メキシコと対戦。釜本邦茂の2ゴールで見事に銅メダルを獲得してみせる。

この偉業は、今でも破られることのない日本サッカーの金字塔として語り継がれている。確かに当時はオリンピックもアマチュア至上主義で、プロの選手が出場できなかったため、東欧やソ連などの共産圏の国や、プロリーグのない日本のような国にチャンスが有ったという事情があったが、それでもこの銅メダル獲得という結果が霞んでしまうわけではないだろう。

 

日本を愛したクラマー氏。

クラマー氏は帰国後、FIFAの公認トレーナーとなり、1975年から2年間バイエルン・ミュンヘンの監督としてUEFAチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)2連覇を達成する。

その際に、「人生最高の瞬間ではないか?」と質問されたが、彼はこう答えたという。

「最高の瞬間は日本がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」

クラマー氏は、自身の欧州最高の大会の優勝よりも、日本のメキシコオリンピックの銅メダルを喜んでくれたのだ。それほどまでに日本という国を、選手たちを愛していた。

その後、サウジアラビア、ギリシャ、マレーシア、韓国、タイなど、世界各国で指導に当たり、75歳になるまで世界中の国々で指導を続けた。

日本サッカー協会は、クラマー氏の功績をたたえ、「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者に選定した。本エントリの冒頭にある写真は、自分が2012年にJFAハウス内の日本サッカー殿堂を訪れた時に撮影したものだ。

クラマー氏が日本にもたらしたものは計り知れない。彼が日本に来なければ、日本サッカーリーグは創設が相当に遅れただろうし、ひょっとしたらJリーグも出来ていなかったかもしれない。日本代表は、「全日本」のまま、いまでもアマチュア至上主義を貫いていたかもしれない。

Jリーグが出来て日本にサッカーが根付き、日本代表が強くならなければ、これほどサッカーが身近な存在になることもなかっただろうし、海外サッカーなどが日本でライブ中継される事もなかっただろう。そういう意味では、Jリーグのファンも、海外サッカーしか見ないというファンも、全てのサッカーファンはクラマー氏に感謝しなければならない。

今の若いサッカーファンは、物心ついた頃から身近にプロリーグが存在し、サッカーという競技が、美しく整備された緑の芝生のピッチで繰り広げられるのが当たり前だと思っているはずだ。だが、そうではなかった時代に、日本サッカーを強くするため、そして、日本にサッカーを普及させるために努力した先人がいた事を忘れないでいて欲しい。

その礎を築いたのがクラマー氏であることは、誰もが認めるところだ。そんな恩人であり、父でもある偉大な存在を失ったのは、本当に残念でならない。

サッカーを愛する一人のファンとして、デットマール・クラマー氏のご冥福を心よりお祈りいたします。