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Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

カズなんて大したことない。

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1%を信じます。

カズなんて大したことない。

静岡県静岡市に生まれ、父方の叔父である納谷義郎が監督を務める城内FCでサッカーを教わる。納屋は、「人の何倍も努力しろ。人が遊んでいる時こそ練習しろ」と言って、兄である泰年とカズの2人を熱心に指導した。

小学校4年生の時に両親が離婚。姓が三浦になる。

本人が後に語ったことだが、実はカズは東海選抜どころか、県選抜にも市選抜にも選ばれたことはない。これといった活躍を見せることなく小学校時代、中学校時代を過ごすことになる。ちなみに、なぜか幼少期のオヤツは納豆であった。

中学3年の時に、カズは突如としてブラジルに行きたいと言い出す。勿論家族は猛反対してカズを説得し、兄泰年と同じ静岡学園高校に進学させる。だが、カズは部活というものに馴染めず、レギュラーにすらなれなかった。

どうしてもブラジルを諦めきれないカズ。その願いを叶えたのは、小学生時代に離婚した後、覚せい剤取締法違反で逮捕され、その後単身日本を離れてブラジルでサッカーの放映権販売や留学生受け入れビジネスを成功させていた父、納谷宣雄だった。

宣雄からのブラジル渡航の打診を受け、カズは高校に中退届けを出す。その際にサッカー部の監督から「100%とは言わないが99%無理だ」といわれ、カズは答えた。「1%あるんですね。それじゃ僕はその1%を信じます」

ブラジルに渡ったカズは、宣雄のツテでCAジュベントスに加入する。だが、ジュベントスではプロ契約を勝ち取ることが出来ずに、キンゼ・デ・ジャウーへと移籍。そこでも鳴かず飛ばずで、カズは半ば「ブラジルでプロになる」夢を諦めかける。

ある日、カズは公園でストリートサッカーに興じる子供たちを見る。楽しそうにボロボロのボールを裸足で蹴るリオの子供たちの中には、片足がない者さえいた。カズはその姿を見て自らを奮い立たせる。「自分には両足もスパイクも綺麗なボールさえあるじゃないか。なにを贅沢なことを言っているんだ!」

その後、キンゼ・デ・ジャウーのユースで頭角を現し、U-21サンパウロ州選手権に日本人として初めて出場。この大会での活躍が認められ、カズは名門サントスFCでのプロ契約を勝ち取ることになる。

 

ブラジルからJへ。

残念ながらサントスでは殆ど試合に出られなかった。無理もない。サントスはブラジルの超名門チームである。チームメイトには現ブラジル代表監督であるドゥンガもいた。

8ヶ月ほどでカズはSEマツバラへとレンタル移籍。翌年にはマツバラがカズのパスを買い取り完全移籍する。その後、クルベ・ジ・レガタス・ブラジルへ移籍し、初めてブラジル全国選手権に出場する。

翌年、ユース時代を過ごしたキンゼ・デ・ジャウーへと移籍、コリンチャンス戦では元ブラジル代表のエジソンのマークを受けながらも、ゴールを含む華々しい活躍を見せ、ブラジルのサッカー専門誌「ブラカール」では左ウイングの年間ランキング第3位に選ばれる。

その後、コリチーバFCを経て再びサントスFCへと復帰する。若かったプロ1年目とは違い、実力を遺憾なく発揮したカズは見事にレギュラーの座を勝ち取り、パルメイラス戦で大活躍した際には、ブラカールの表紙を飾るだけでなく、ブラジルのスポーツ新聞から一般紙に至るまでカズを取り上げ、その活躍を讃えた。

一方その頃、日本では初のプロサッカーリーグであるJリーグ発足の準備に入っていた。常日頃から「ブラジルで成功したらW杯に出るために日本に戻る」と公言していたカズは帰国を決意し、1990年に読売クラブに加入する。

日本復帰からしばらくは日本のサッカーに馴染めずに活躍できないでいたが、読売加入当初からチームメニューとは違うブラジル体操を先頭を切って行うなどプロ意識を発揮。徐々にチームに溶け込み、そして変えていく。

Jリーグのプレ大会として開かれた第1回ヤマザキナビスコカップで、読売クラブあらためヴェルディ川崎となったチームは、決勝で清水エスパルスを下して優勝し、MVPにはカズが選ばれる。

帰国して2ヶ月後に早くも全日本に選ばれていたカズは、その後「日本代表」の愛称で呼ばれる事になるチームの中心でもあり続けた。

1992年に、かつてマツダの監督を務めたハンス・オフトが日本代表監督に就任すると、オフトはカズをCFへとコンバートする。これがカズの得点能力を開花させ、日本代表の得点力を向上させる。

同年に開催されたダイナスティカップ、アジアカップを共に制し、かつてない期待の中突入したW杯アメリカ大会アジア予選では、順調に勝ち進んで最終予選へと進出した。

1993年5月15日。サッカーに携わる人々が夢にまで見た瞬間が訪れる。日本プロサッカーリーグ「Jリーグ」の開幕である。伝説の開幕カードは「ヴェルディ川崎vs横浜マリノス」だった。当然ながらカズはそのピッチにいた。いまから22年前の出来事である。

 

世界への道。

Jリーグでもカズは躍動し、最終的に得点ランキングではラモン・ディアス、アルシンドに次ぐ3位、日本人では最高の20ゴールをマークした。

1993年の10月に迎えたW杯アメリカ大会アジア最終予選。日本は初戦のサウジアラビア戦を引き分け、続くイラン戦は1−2で落としてしまう。

第3戦の北朝鮮戦を3−0で終えて臨んだ宿敵韓国戦。後半14分にラモス瑠偉がロブ気味のボールを韓国DFの裏に出し、それを受けた吉田光範がグラウンダーのクロスを入れる。半身でボールを僅かにタッチしたカズは、そのままの流れで体を入れ替え、中山に当たって戻ってきたボールを右足でゴールに流し込んだ。今では信じられないかもしれないが、これがW杯予選・五輪予選を通じて初の日韓戦の勝利だった。

最終戦のイラク戦では開始5分にカズのゴールで先制したものの、徐々に運動量が落ちたことも有りイラクに追いつかれる。その後、中山が決めて再び勝ち越した日本。このまま試合が終われば日本のW杯出場が決まる。試合は後半の追加タイムに突入し、イラクが得たCK。誰もが普通に入れてくると思っていた矢先のショートコーナーに虚を突かれ、フセイン・カディムのクロスへの対応が遅れた。そして、オムラム・サルマンの美しくも残酷なゴールが決まってしまう。

これが世に言う「ドーハの悲劇」である。イラクのショートコーナーに気がついて最初に対応に行ったのはカズだった。だが、その足はあと1歩及ばなかった。それはW杯に出るためのほんの僅かな、そして大きな1歩だった。

帰国後、カズはヴェルディ川崎の一員として鹿島アントラーズとのチャンピオンシップを制し、栄えあるJリーグ初代チャンピオンになった。記念すべき初年度のMVPはカズだった。第1回Jリーグアウォーズで、大きなバルーンを割って中からカズが登場するパフォーマンスは見る者の度肝を抜いた。

翌94年。カズは新たな挑戦を決意する。当時世界最強リーグとして名を馳せたイタリアのセリエAに所属するジェノアへ期限付き移籍を果たしたのだ。

日本人どころかアジア人としても初のセリエA挑戦は衝撃的だった。だが、その熱狂は初戦で早くも打ち砕かれる。ACミランとの開幕戦。カズは競り合いでフランコ・バレージと衝突して鼻骨を骨折し、戦線離脱を余儀なくされる。結局ジェノア時代はジェノバダービーでの1得点のみに終わり、95年の2ndステージからJリーグに復帰する。

 

KING KAZU

1997年。フランスW杯に向けてのアジア最終予選が始まった。

初戦のウズベキスタン戦では、城彰二と2トップを組んで先発出場。この試合でカズは4得点を上げ、サッカーマガジンの採点では10点満点を貰い、アジアサッカー連盟の広報誌にも表紙で大きく「KING KAZU」として取り上げられた(初出ではない)

しかし、第3戦の韓国戦でアクシデントが起きる。接触プレーがあった際に尾てい骨を骨折、全治は6ヶ月だった。だが、カズはその事を公表せず、強行出場を続けた。パフォーマンスは明らかに落ちていき、ジョホールバルで行われたアジア第3代表決定戦では途中交代。歓喜の瞬間をピッチ内で味わうことはなかった。それどころか、夢であったW杯の最終メンバーからも外れてしまう。

「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」

失意の帰国後に記者会見でそう答えたカズ。結局、城彰二をFWの軸に据えた日本代表は、初めてのW杯を3戦全敗で終えることとなる。

ここからカズのサッカー人生は激動の時期を迎える。1998年にはヴェルディが読売新聞の撤退により予算の大幅削減を迫られ、高年俸のベテラン選手を軒並みリストラ。勿論そこにはカズも含まれていた。そして、カズはクロアチア・ザグレブへの移籍を決断する。

ザグレブ移籍当初、クロアチア各紙は大きく報道。中でもスポーツ紙である「スポルツスキ・ノボスティ」は1面トップで取り上げたが、日本語が間違っており「サヨウナラミウラ」と書かれていた。

クロアチアではアシストやPKを獲得するような活躍は見せたものの、期待されたゴールを奪うことは出来ず、チームは優勝を果たしたが、翌年就任したオズワルド・アルディレス監督によって戦力外通告されて、1シーズンのみで帰国することになる。

その後、京都パープルサンガ、ヴィッセル神戸と渡り歩き、2005年には現在の所属チームである横浜FCへと辿り着く。

その年のクラブW杯では、シドニーFCの監督を務めていたピエール・リトバルスキーの打診を受け、ゲストプレイヤー(という制度がオーストラリアにはあった)としてシドニーFCにレンタル移籍。そのままクラブW杯にも日本人として初めて出場する。

翌2006年には、共に日本代表で戦った高木琢也がシーズン途中で監督に就任する。高木はカズを「カズさん」と呼び、カズは「高木!」と呼ぶ逆転現象が起きる。

2006年のJ2で横浜FCは優勝を果たし、意気揚々と臨んだ2007年のJ1だったが、最下位に終わり1年でJ2降格。カズの得点も3点に留まる。

2008年以降は、攻撃的MFやボランチを経験したり、長く負傷に苦しむなど、決して順調とは言えないシーズンを送ることが多くなる。

2011年。日本を未曾有の大災害が襲う。東日本大震災である。JFAは震災で日本全体が沈んでいる時に、どうにか人々を元気づけようと、大阪で日本代表とJリーグ選抜によるチャリティーマッチを企画。カズもそのメンバーに選ばれる。

あの日、後半17分から途中出場したカズは、後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールを蹴りこみ、ゴールをあげる。そのままゴール裏に走っていき、人々を勇気づける最高のカズダンスを踊ってみせた。

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翌2012年には、フットサルの日本代表として、タイで開催されたFIFAフットサルW杯に出場。日本代表の青いユニフォームを着たカズの姿を人々は久しぶりに見ることになる。

今シーズン、カズはプロになって30年の節目を迎えた。御年48歳である。記録は現時点で13試合出場3ゴール。自らが持つJリーグ最年長ゴール記録を3度も塗り替えた。

2015年11月11日11時11分。カズの背番号11にちなんで、この時間に横浜FCから来季の契約延長の発表があった。このニュースは世界に驚きを持って迎えられた。イングランドのガーディアンやインディペンデントはカズを「世界最年長選手」として讃え、イタリアのガゼッタ・デッロ・スポルトは「時代を超越した存在」として賞賛した。

かつて、ブラジルの孤児院にカズが200個のボールを寄付したことがあった。それからしばらくしてJリーグもその孤児院にボールを寄付したのだが、孤児院の子供たちは渡されたスポルティングのボールを見て「スポルティングじゃなくてKAZUが良かった」と話した。カズは、全てのボールに「夢を諦めるな。KAZU」とサインをしていて、子供たちは「KAZU」がメーカーの名前だと思い込んでいた。

カズは日本代表の試合の後、必ずユニフォームを持って帰っていた。これが最後かもしれないと常に思っていたからだ。用具係が「そんな事しなくても、カズさんなら次に来た時に渡しますよ」と言ってきても「俺達に次の保証は無いんだ」と、即座に言い返していた。

常に危機感を持ち、自らを高めることに余年のないカズ。チームの合宿が始まる前には必ず2週間前に先乗りして自主トレを欠かさない。体脂肪率は12%以下がポリシーである。体の絞り過ぎで血管が切れる可能性があると諭されるほど、自分を追い込んでいる。

サッカーとは人生そのもの。日本代表は常に目指すべき所。いつ声がかかってもいいように、カズは48歳になった今でも準備をしている。

「サッカー選手であるかぎり、到達点は見えてこない。死ぬまでの間は全て通過点」と語り、まだ見ぬ世界を追い、全速力で走り続けるキング・カズ。

日本で最も背番号11が似合う男。

そんな、どこにでもいる日本のレジェンド。

それがカズ。三浦知良。