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Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

澤なんて大したことない。

サッカー なでしこ 大したことないシリーズ

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その女、怪物につき。

澤なんて大したことない。

1978年9月6日、東京都府中市に生まれる。

6歳の時に、1歳年上の兄 典郷の後を追いサッカーを始める。

小学校2年生の時に、地元のサッカーチーム「府ロクサッカークラブ」に入団を希望するも、「女子である」という理由で仮入団となる。だが、澤は初めて出場した試合でゴールを決めるなどの活躍をし、正式に入団を認められた。

当時のチームメイトは、当然全員が男子である。2つ下の後輩に現川崎フロンターレ所属の中村憲剛がいるが、彼は澤について「僕が最初に出会った怪物」というコメントを残している。

チームで頭角を現し、もう誰も澤を「女の子」扱いするものはいなくなった。男子との練習でテクニックやスキルを磨き、50メートル7秒台前半の快足も大きな武器となり、中学に入学すると同時に読売ベレーザの下部組織であるメニーナに入団する。そして、そのわずか1ヶ月後にはトップチームに昇格した。

ベレーザには、女子日本代表選手が多数所属していた。そんな中に放り込まれた澤は練習に付いていくだけで精一杯だったが、本人の負けず嫌いの性格から毎日居残り練習を続けメキメキと成長していった。

そして、1993年12月にマレーシアで開かれた女子アジアカップのフィリピン戦で代表デビューを果たす。澤はその試合でいきなり4ゴールを決める大活躍をみせる。

澤は15歳にして日本女子サッカーリーグのベストイレブンに選ばれ、既にリーグを代表する選手の一人になっていた。

 

女子サッカー新大陸アメリカ。

1996年、アトランタ五輪が開催される。女子サッカーが正式競技になったのはこの大会からである。澤が17歳の時だった。

だが、その夢にまで見た舞台で澤は3戦全敗という現実を突きつけられる。初戦のドイツ戦こそ3−2と健闘したものの、続くブラジル、ノルウェー戦はまるで刃が立たず、グループリーグ最下位に終わった。

90年代後半、Lリーグと名を変えて「世界最高のリーグ」と呼ばれていた日本女子サッカーリーグであるが、不況の影響やアトランタ五輪の惨敗を受けて撤退する企業が続出する。フジタSCマーキュリー、日興証券ドリームレディースなどが相次いで消滅した。

澤は、大学を中退してアメリカへと渡る。サッカーが出来なくなることを恐れ、居場所を求めてコロラド・デンバー・ダイアモンズに加入した。

一方その頃、アメリカではアトランタ五輪での金メダルや1999年の女子W杯(当時は女子世界選手権)での優勝を受けて、アメリカ女子サッカーリーグ(WUSA)が創設される。初年度の所属チームは8チーム。その中のひとつ、アトランタ・ビートの監督に、コロラドの監督だったトム・ストーンが就任することになったのだ。そして、彼はアトランタへ澤を連れて行った。

2001年。WUSAが華々しく開幕した。アトランタ・ビートはアウェイでボストン・ブレイカーズと対戦。この試合で、澤はチームの記念すべき初得点を決める。澤はチームの歴史にその名を刻んだのだ。

「No.8、MFホマレ・サワ、フロムジャパン!」

アトランタ・ビートのサポーターは、その名が試合前にコールされるとひときわ高い声を上げ、澤を仲間として迎えた。現地では「クイック・サワ」と呼ばれた。

しかし、そんな夢の様な日々も長くは続かなかった。WUSAが資金難を理由にわずか3年で終了することになってしまったのだ。

その頃、澤は恋に落ちていた。相手はパーティーで知り合った7才年上のFBI職員だ。既に同棲もしていた。

しかし、WUSAの消滅に伴い帰国を迫られた澤は、そのまま彼と結婚してサッカーをやめて米国で暮らすことを考えていた。その話を聞いて、澤の母親である満壽子(まいこ)は澤に「あなたは何を目指してアメリカにいるの?」と、問いただす。

結婚とサッカーとの間で苦悩する澤に、同棲相手も「本当にサッカーをやめられるのか?」と尋ねた。澤は「もちろん」と答えたが、彼はこう続けた。

「サッカーをやめて、君は本当に後悔しないのか? 主婦として家で退屈している姿なんて君には似合わない。サッカーをとことん続ける君を僕は応援している。いつまでも」

澤は2003年のWUSA休止に伴い、帰国を決意。翌年、ベレーザへと復帰する。

 

苦しい時は私の背中を見なさい。

2004年。オーストラリア女子代表が「マチルダス」という愛称で呼ばれている事にヒントを得て、日本女子代表にも愛称をつけることになった。約2700通の応募の中から選ばれた名前は「なでしこジャパン」だった。愛称発表記者会見時には、澤が書いた題字が使われている。

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2006年7月にオーストラリアで女子アジアカップが開催された。この大会は、翌年の女子W杯中国大会の予選を兼ねていたが、なでしこジャパンは4位に終わり、大陸間プレーオフに回る。

同年12月に開催されたアジア大会では、決勝で北朝鮮にPK戦の上敗れ準優勝。翌年の大陸間プレーオフではメキシコを2戦合計3−2で辛くも上回り、W杯本大会出場を決める。更に4月から行われた北京五輪アジア予選では1位で出場権を獲得。意気揚々と臨んだ中国でのW杯は、1勝1敗1分けでグループリーグ敗退を喫した。

2008年。なでしこジャパンの監督に佐々木則夫が就任する。そして2月に行われた東アジア選手権で女子サッカー界初のタイトルを獲得し、同年5月にベトナムで開催されたアジアカップでは、3位決定戦で「先輩」であるオーストラリア女子代表「マチルダス」を寄せ付けずに3−0で完勝し、3位の座を勝ち取る。澤は優勝チームでないにも関わらず大会MVPに選ばれた。

8月の北京五輪。グループリーグは1勝1敗1分だったが成績上位の3位に食い込み、決勝トーナメントに進出。準々決勝の中国戦では2−0の完勝、史上初の五輪ベスト4入りを果たす。だが、準決勝でアメリカに、3位決定戦でドイツにいずれも完敗し、4位に終わる。

この大会、キャプテンとしてチームを引っ張ったのは澤だった。当時はまだ若手だった宮間あやは、大会中に澤が言った言葉が忘れられないという。

「苦しい時は私の背中を見なさい」

宮間は走った。最後の1秒まで背番号10を追いかけて走った。

後に澤本人があまりこの事は覚えていないとした上で、「口だけじゃなくて、自分がピッチで表現していかないと若い選手はついてこないから」と語っていたが、その通りに皆が澤について行った。

この時点で、澤はもはや生ける伝説だった。だが、伝説はここで終わらなかった。更なる飛躍がこの後に待ち受けていたのだ。

 

バロンドーラー澤穂希。

2008年のオフシーズンに、澤は翌年開幕予定のアメリカ女子サッカーリーグ(WPS)のワシントン・フリーダムへと移籍。そこで澤は背番号10を与えられた。チームメイトにはアメリカ代表のアビー・ワンバックがいた。澤はWPSの日程が終了すると、なでしこリーグへ復帰するなど忙しい時期を過ごす。

2011年1月に、所属元の日テレ・ベレーザが経営難に陥り、ベテラン選手が軒並みリストラにあう。その中に澤の名前もあった。澤は、当時休部したチームなどから有力選手を次々と補強していたINAC神戸レオネッサへ移籍する。

INACではサッカーに専念できた。32歳になっていた澤はコンディションを整えることに腐心した。6月にはドイツで自身5回目のW杯が開催される。そこに向けてパフォーマンスを上げていくはずだった。

だが、3月11日にあの東日本大震災が起きた。日本に甚大な被害をもたらした未曾有の大災害は、人々の心にも多大な影響を及ぼしていた。日本中に暗い空気が漂い、人々は不安を抱えながら日々の生活を送っていた。

当時の女子サッカーは人気競技ではない。W杯の開催直前になっても、殆どメディアで取り上げられること無く、なでしこジャパンはひっそりと初戦のニュージーランド戦を迎えた。

第2戦のメキシコ戦では、澤は実に10年ぶりのハットトリックを達成。これにより釜本邦茂を抜き、日本サッカーにおける最多得点記録保持者となる。

第3戦のイングランドには敗れたものの、2位でグループリーグを突破したなでしこは、トーナメントの初戦でホスト国ドイツと対戦。この試合で澤は丸山桂里奈へのアシストを記録し、史上初めてドイツを破り準決勝へと進出。試合後、澤はインタビューで「今日がドイツを倒す時だった」と語った。

準決勝のスウェーデン戦では自身のゴールも含めて3−1の快勝。この頃には日本国内でもなでしこジャパンの活躍が大きく取り上げられており、かつてない期待を背負って決勝のアメリカ戦へと臨むことになる。

決勝戦当日。澤は不思議な気分だった。2008年の北京五輪では、準決勝の前日会見で「もうアメリカには負けたくない」と語っていた澤だが、その日は違った。なぜか勝てる気がしていたのだ。理由はわからない。

試合はアメリカが押し気味に進めていたが、前半は0−0。後半も24分まではアメリカの攻撃をしのいでいたなでしこジャパンだが、ついにアレックス・モーガンに先制点を許す。だが後半36分に宮間あやのゴールで追いつき、試合は延長戦へ。

延長前半14分に、最も警戒しなければならなかった相手であるワンバックを、エリア内で一瞬フリーにしてしまい勝ち越し点を許す。だが、なでしこジャパンは諦めない。延長後半の12分。宮間の蹴ったCKに澤が右アウトサイドで合わせるスーパーゴールで同点に追いつき、試合はPK戦へと突入する。

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実はこのPK戦、澤は真っ先にキッカーを辞退している。2006年のアジア大会決勝、北朝鮮戦でファーストキッカーをつとめて失敗したのがトラウマになっていたのだ。

PK戦は、GK海堀あゆみの神がかり的なセーブなどでアメリカが3本連続で失敗。対するなでしこは2人目の永里優季(現・大儀見優季)が外したものの、4人目をつとめた熊谷紗希がしっかりと決めて、日本サッカー界に初のFIFA主催大会のタイトルをもたらした。

この大会、得点王、MVPともに澤が受賞。世界中のメディアがなでしこジャパンの優勝を祝福し、賞賛した。その中心に澤がいた。優勝トロフィーを空高く掲げ、黄金の紙テープが舞い落ちる中、澤は日の丸をまとって場内を歩き続けた。

帰国したなでしこジャパンを、出発時とは比べ物にならない数の人々、メディアが迎えた。そして、なでしこジャパンは団体としては初の国民栄誉賞を受賞、加えて、澤自身は男女を通じてアジア人で史上初となる「FIFA年間最優秀選手賞」、バロンドールの名で知られる、最高の栄誉となる賞を受賞する。その年の男子の受賞選手は、あのリオネル・メッシである。

なお、佐々木監督は年間最優秀監督賞を受賞した。まさに、2011年はなでしこが世界に咲き誇った年だった。

 

王者として、そして一人の人間として。

2012年3月に、澤はアルガルベカップ開催中に体調不良を訴えた。診断は「良性発作性頭位めまい症」。澤は療養を余儀なくされた。この際に良き友であるワンバックが、わざわざ澤のもとに駆けつけて激励してくれた。

7月のロンドン五輪のメンバーに順当に選出された澤は、自身4度目の五輪で初の決勝進出を成し遂げる。ブラジル、フランスなどの強豪国を下して勝ち上がったその先に待っていたのはアメリカだった。試合は1−2で敗れるものの、メキシコ五輪以来44年ぶりのメダルを日本サッカー界にもたらした。

2014年5月にベトナムで開催された女子アジアカップでもなでしこジャパンは順当に勝ち進み、決勝ではオーストラリア相手に前半28分の岩清水梓のゴールを粘り強く守りぬいて初優勝を果たす。だが、その試合終了時のピッチに澤は立っていなかった。後半20分に菅澤優衣香との交代でベンチに退いていたのである。

その後、澤はなでしこジャパンから遠ざかる。

佐々木監督は事ある度に澤のことを聞かれていたが、その意図を明確には語らなかった。一部では、澤はW杯カナダ大会のメンバーには選出されないのではないかとさえ言われた。

2015年5月1日。佐々木監督が発表したなでしこジャパンのメンバーに澤の名前はあった。大会直前のニュージーランドとの復帰戦では決勝点を決め、その存在感を見せつけた。澤は語った。

「代表を外れた1年間という時間は、私にとって必要だったと思うんです。この時間のおかげで、もう一度、日の丸を背負いたいと思えたんですから」

ロンドン五輪が終わって、澤は目標を見失いつつあった。そんな中、澤を支えたのは「サッカーをすることの楽しさ」だった。2015年のINACの監督に、旧知の仲である松田岳夫が就任したのも澤にとっては幸いだった。澤は、あれは偶然ではなく必然だったと語っている。

迎えた6月のカナダW杯。なでしこジャパンは信じられないような粘り強さを見せて決勝まで勝ち進む。そして、そこに待ち受けていたのはまたもやアメリカだった。だが、スタメンに澤の名前はなかった。

試合は、なでしこジャパンが前半16分までに立て続けに3失点を喫し、動揺する岩清水に代えて澤が投入されたが、もはやアメリカに傾いた流れは変えることが出来ず、2−5で敗れた。

澤は、このカナダW杯を最後のW杯と位置づけていた。決勝戦の後、澤は「本当に悔いなくやりきった気持ちです」と語っていた。現役である以上、リオデジャネイロ五輪も狙いたいとは話していたが、澤の中で一つの区切りが付いたようなコメントだった。

2015年8月11日に、澤は入籍を発表。結婚相手は元ベガルタ仙台DFの辻上裕章だった。日本のメディアは大きくこれを伝えた。

2015年12月16日。澤が現役を引退することが突如として発表された。澤に残された試合は2015年の皇后杯のみ。おそらく、最後の勇姿をみようと多くの人がつめかけるだろう。

夢は見るものではなく叶えるもの。澤はいつも言う。もはやこの言葉は澤の哲学でもある。バロンドールの授賞式では、「たくさんの子供達に目標や夢を持ってもらえたらいい。不可能はないということを証明できた」と語った。

澤のW杯6大会出場という記録はW杯における最多出場記録として、来年発売のギネスブックにも記載される。

積み重ねた代表キャップ数は205。叩き込んだゴールの数は83。ともに男女を通じて日本最多記録である。

澤は、子供の頃に所属していたチームが大会に出る時に、女子であるという理由だけで試合に出ることが出来ず、「男として生まれたかった」と悔しがった。だが、後に振り返ってこう語った。

「女性という運命には逆らえないけど、運命は自分の手で切り開くことができる」

その言葉通り、自らの手で常に運命を切り開いてきた。

常に不可能を可能にしてきた。

そんな、どこにでもいる日本サッカー史上最高の存在。

それが、Queen Sawa、澤穂希。 

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※2013年 あいづ陸上競技場にて撮影。