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2016 U-23アジア選手権決勝 日本vs韓国じっくりマッチレビュー

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あの日

カタールの首都ドーハ。そこは、日本サッカーにとっては特別な意味を持って語られる場所である。そう、あの「ドーハの悲劇」が起きた地だからだ。

1993年10月28日。アメリカW杯アジア最終予選に進んだ日本は、一時は最下位に転落しながらも、北朝鮮と宿敵(と、当時言っていいものかどうか悩むくらい勝てない相手だったが)韓国を降し、最終戦に臨んでいた。相手はイラク。この時点で首位に立っていた日本は、勝ちさえすれば文句なしに初のW杯出場が決まる。日本中の目が、かつて無い熱気で日本サッカーを見つめていた。

試合は開始5分で日本が先制点を奪い、後半にいったん同点に追いつかれたが、69分にラモス瑠偉が放ったスルーパスに中山雅史が反応してネットを揺らし、再びリードする。試合はそのまま経過して、後半のアディショナルタイムに突入していた。

この試合のハーフタイム、日本代表監督であるハンス・オフトはまともな指示を出すことができなかった。選手たちが口々に自分の言いたいことを叫んでおり、ロッカールームは興奮状態だった。オフト監督は3回に渡って「黙れ!」と選手たちを叱責しなければならないほどだった。W杯出場権獲得という未体験ゾーンを前にして、選手たちは、いや、監督であるオフトまでもが正常な精神状態ではなかった。

キャプテンである柱谷哲二は、アディショナルタイムは無いと踏んでいた。実際、その試合はほとんど止まっておらず、前半は全くアディショナルタイムが無かった。後半もプレーは切れていなかったので、90分を経過した時点で笛が鳴ると勝手に思い込んでいた。

だが、その試合で一度だけ審判は時計を止めていた。試合中にペットボトルが投げ込まれ、それをピッチ外に出すためにほんの少しだけ試合が止まっていたのだ。その間わずか17秒。それは、日本の運命を決める17秒だった。

イラクの選手たちがショートコーナーを選択した時に、柱谷は叫んでいた。

「お前ら何やってんだ! 時計見てないのかよ!」

実際、キッカーのライト・フセインとボールを受けたフセイン・カディムは時計を見ていなかったと言われている。日本は完全に意表をつかれ、三浦知良が慌てて応対にいくものの、かわされてゴール前にクロスを上げられる。そして、オムラム・サルマンのヘッドが緩やかな軌道を描いてネットへと吸い込まれていった。

日本の選手達は、まるで銃撃にあったかのようにバタバタとその場に倒れた。その後、キックオフするものの、それと同時に試合は終了し、日本のW杯出場の夢は潰えた。


 

勝てない世代

あれから22年と3ヶ月。

日本サッカーは幾多の奇跡と歓喜を味わってきた。だが、「ドーハ」という場所に対するトラウマは払拭できないままだった。

今大会で日本に割り当てられた練習場は、まさにそのドーハの悲劇が起きたアル・アリ競技場だった。2011年のアジアカップカタール大会でも同じだった。

手倉森誠監督が率いるU-23は「勝てない世代」と揶揄されてきた。

だがこの世代は、2011年にメキシコで開催されたU-17W杯で吉武博文監督に率いられ、素晴らしいサッカーを披露して準々決勝まで進んでいる。ブラジルに2-3で惜敗(とは言っても3点先に取られたのであるが…)したものの、チームとしての評価は素晴らしく、「アジアのバルセロナ」と呼ばれ、地元のメキシコ人達も日本のサッカーを気に入って応援してくれていた。

「勝てない世代」というレッテルが貼られたのは、2013年に開催されたU-22アジアカップと、2014年の仁川アジア大会でともにベスト8止まりだったからだろう。だが、その大会は日本はレギュレーション通りの23歳以下の選手たちではなく、リオ五輪を見据えて21歳以下の選手たちだけで臨んでいた。

たかが2歳差というかもしれないが、あの時点で「U-23」のチームを組もうと思ったら、宇佐美貴史や武藤嘉紀や柴崎岳が招集可能になっていたといえば違いがわかってもらえるだろう。彼らはいずれも今回のU-23アジア選手権の出場資格は持っていない。日本は先を見据えて「純粋にこの大会で使える選手」だけで勝負してきたのだ。

国際試合で敗北を喫したのは、いずれも日本がU-21に対して相手がU-23の構成だったり、そこにオーバーエイジが加わっていたチームだった。同世代のチームには負けるどころか流れの中からの失点すら許してなかったのである。

 

 

必然だった悲劇と勝利。

先日の韓国との決勝戦は、今大会初の先制点を許した。20分にクォン・チャンフンに決められたゴールは、岩波拓也の足に当たって角度が変わるという不運なものだった。

後半の失点は、本人も認めているが手倉森監督の失策だった。後半開始からオナイウ阿道を下げて原川力を投入し、ボランチを3枚にして修正を図ろうとしたが上手くいかず、混乱している間にチン・ソンウクに決められてしまったのだ。

だが、選手たちは慌てなかった。スカウティングで「韓国は後半に運動量が落ちる」とわかっていたからだ。とはいえ、当初のゲームプランは前半を無失点で乗り切るというものだったので、2点のビハインドは完全な誤算だ。

それでも、韓国がリードに気を良くして日本を舐めてくれたおかけで、球際での争いにも勝てるようになって来ていた。まさにそのタイミングで大島僚太に代えて浅野拓磨が投入された。これは手倉森監督が選手たちに送ったサインだ。

浅野は出場から7分後にさっそく結果を出す。矢島慎也のスルーパスを受け、DFの裏に抜け出した浅野は、飛び出してきたGKの横を抜ける浮き玉のシュートを決めた。そして、ゴールの喜びを見せることなく次のゴールを奪うためにセンターサークルに向かって走って行った。

その1分後、今度は山中亮輔のクロスを矢島がヘッドで決めて同点に追いつく。すっかり勝った気でいた韓国は、あっという間の同点劇に動揺していた。監督のシン・テヨンですら、もはや長身の選手を投入してパワープレーをするしか策は思いつかなかった。5つの鉾を操るなどと言われたチームとは思えない混乱ぶりだった。

そして、81分に中島翔哉の浮き玉のパスを受けた浅野が、DFと体を入れ替えるかたちで抜け出し、冷静にゴールにボールを流し込んだ。想定外の状況に陥っても慌てることなく選手たちは状況を理解し、監督も明確な意図を持って選手たちにメッセージを伝えたからこその勝利だった。

彼らは奇跡を起こしたのではない。勝つべくして勝ったのだ。

22年前、W杯まであと一歩と迫っていたオフトジャパンは、都並敏史の負傷の穴を埋められず、それでも巡ってきたチャンスの重圧に耐え切れず、冷静に状況を捉えることが出来なかった。ある意味、悲劇は避けられないものだった。

だが、手倉森ジャパンは違った。選手は誰も「あの日」を経験していないが、誰もが「あの日」に何が起きたかは知っている。それが血となり肉となって、日本サッカーを主に意識レベルで「W杯、五輪は出て当たり前」という段階にまで引き上げてきたのだ。

つまり、それが「強くなる」ということなのである。