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Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

本田なんて大したことない。

サッカー 大したことないシリーズ

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世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。

本田なんて大したことない。

1986年、大阪府摂津市に生まれる。

小学校2年生の時に両親が離婚し、圭佑と兄弘幸の2人は父親である司に引き取られた。だが、司は仕事が忙しく、2人は実質的に祖父母に育てられることになった。同い年の従兄弟の「ヨウちゃん」も加わり、3人が6畳間で肩を寄せあって暮らす日々。そんな、食べ物1つをわけあって過ごす毎日の中、出会ったのがサッカーだった。

そして、地元の摂津FCに入団しサッカーを始める。兄とヨウちゃんと3人で日が暮れるまでボールを蹴り合い、プロ選手になる夢を語り合った。本田はその夢を小学校の卒業文集に包み隠さず綴っている。

「将来の夢」


ぼくは大人になったら、世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。
世界一になるには、世界一練習しないとダメだ。
だから、今、ぼくはガンバッている。
今はヘタだけれどガンバッて必ず世界一になる。
そして、世界一になったら、大金持ちになって親孝行する。
Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれてヨーロッパのセリエAに入団します。
そしてレギュラーになって10番で活躍します。
一年間の給料は40億円はほしいです。
プーマとけいやくしてスパイクやジャンバーを作り、世界中の人が、このぼくが作ったスパイクやジャンバーを買って行ってくれることを夢みている。
一方、世界中のみんなが注目し、世界中で一番さわぐ4年に一度のWカップに出場します。
セリエAで活躍しているぼくは、日本に帰りミーティングをし10番をもらってチームの看板です。
ブラジルと決勝戦をし2対1でブラジルを破りたいです。
この得点も兄と力を合わせ、世界の強ゴウをうまくかわし、いいパスをだし合って得点を入れることが、ぼくの夢です。

 そんな本田の口癖は「絶対サッカーでメシ食ったる!」だった。

 

 

同い年のスター。

本田が小学校4年生になった頃、摂津ニ中のサッカー部にいた兄の弘幸に付いて行き、中学生の練習に混ぜてもらっていた。

そのサッカー部顧問である田中章博が、ガンバ大阪上野山信行ユース監督と旧知の仲で、話の流れで本田が紹介され、「なかなか上手い。じゃあ獲ろうか」という事になり、本田はガンバのジュニアユースへと進んだ。

だが、当時の同学年には小学生の頃から有名だった大スター家長昭博がいた。その年のガンバのジュニアユースの大本命は家長だったのだ。

本田はレギュラーにはなれなかった。ミニゲームではテクニックを発揮するのだが、いざフルコートの試合になると途端に「走れない。スタミナがない」という弱点を露呈し、全く活躍できなかった。

絶対的な存在だった家長が常にトップ下を務めていたため、本田が試合に出る時は右サイドか左サイドだった。だが、そこにはもっとスピードがあり、持久力を持った選手が他にもいた。自然と本田の出場機会は減っていき、結局ユースへの昇格は見送られた。

だが、本田はそれで心が折れたりなどしなかった。それどころか、上野山に対してすぐに「星陵高校に行きたい」と伝えてきたのだ。常々「俺は家長には負けていない」と言っていた本田にとって、ユースに昇格できないという結果は、プライドをひどく傷つけられたはずだ。それでも、本田はすぐさま次の目標を設定し、進む道を選んだ。

9月上旬、ガンバの担当者が星稜高校サッカー部の顧問である河崎護の元へ「ウチの選手をちょっと見てやってくれないか?」と連絡をした。「ウチの選手」とは、勿論本田のことだ。

本田は中学3年の10月に星稜高校に顔を出す。河崎は本田の事をまったく見たことも聞いたことも無かったが、いきなり四日市中央高校との練習試合で左サイドハーフで起用した。河崎は本田の技術、とくに左足の素晴らしさを目の当たりにし、迷わず本田を受け入れようと決めた。その事を本人に伝えると、本田はすぐさま河崎に尋ねた。

「ここではパスを繋ぐサッカーが出来ますか? 俺をレギュラーで使ってくれますか?」

河崎はその日一番の衝撃を受けた。

 

 

人として成長した星稜高校時代。

本田は燃えたぎっていた。目標はいくつもあった。プロになること。世界でプレーすること。その為には高校サッカーでもナンバーワンになること。ギラギラとした野心を持ち、それを全く隠そうとしない。上級生はうるさくて生意気な奴が入ってきたと思っていた。

ともすれば浮いてしまいがちな強烈な個性を河崎が上手くコントロールし、高円宮杯全日本ユースでは準優勝を成し遂げる。だが、肝心の高校選手権では初戦で敗退してしまった。

2年生になると本田は背番号10を与えられ、先輩の豊田陽平(サガン鳥栖)、同級生の橋本晃司(川崎フロンターレ)と共に星稜高校の中心選手となった。だが、ストイックさ故に厳しい要求を突き付け続ける本田に対してよく思わない上級生もいた。思うような結果が出ないこともあり、この年の本田は悩みに悩んだ。

3年生になると本田は主将に就任する。河崎は、本田の技術は認めながらも、それだけでは駄目だということを熱心に指導した。

「相手の嫌なところを見つけ、そこで受けたり、決定的な仕事をできるようになれ。動きの質に量をもっともっとプラスしていけ」

スピードの無い本田にとってみれば、それは至極当たり前のアドバイスではあったが、河崎はずっと言い続けた。上のレベルに行くと足元だけの選手は通用しないと口を酸っぱくなるまで繰り返した。

夜の21時過ぎには寝て、朝の5時に起きる。高校生でありながら、練習、食事、睡眠、すべてをサッカーに捧げた。そこに自らの幼少期からくるハングリーさも相まって、周囲を巻き込んでチームを変えていった。

高校3年の冬。本田率いる星稜高校は、石川県勢として初の全国ベスト4進出を成し遂げる。そして、本田のもとには複数のJリーグのクラブからのオファーが届いていた。本田は特別指定選手として参加していた名古屋グランパスを選んだ。

 

 

実績なしで海外へ。

当時の名古屋グランパスの監督はネルシーニョだった。彼が本田に与えたポジションは左サイドバック。その次のセフ・フェルフォーセンは左ウイングバックとして起用した。その時期の名古屋のエースはフローデ・ヨンセン。彼の高さを活かすために本田の左からのクロスは必要だった。

本田はプロ入り2年目にして個人マネージャーを付けた。身の回りの世話、食事、サッカー以外の予定の調整などはすべてそのマネージャーに任せていた。全てはサッカーに集中するため。若干19歳にしてこのプロ意識を発揮する本田に、楢崎正剛や秋田豊、そして後に海外移籍のアドバイスをすることになる藤田俊哉などは、ある意味感銘を受けてよく面倒を見ていた。

2007年に開催された北京五輪のアジア予選では、反町ジャパンの主力として活躍、チームを五輪出場に導くが、自身の希望する中央のポジションでは使ってもらえなかった。

その頃、名古屋のフェルフォーセン監督は自身が指導者の道をスタートさせたクラブ「VVVフェンロ」の会長であるハイ・ベルデン会長に「ウチにいい選手がいる」という打診をしていた。フェルフォーセンが推薦したのは小川佳純、阿部翔平、そして本田だった。ベルデン会長は一番若い本田を選んだ。

当時の日本サッカー界において、Jリーグでさしたる実績もない選手が海外のクラブに移籍するのは異例だった。懐疑的な目で見る者も多かった。だが、本田は迷わずこのオファーに飛びついた。元々「名古屋では3年しかやらない」と決めていたのだ。

2008年の1月に本田はVVVに入団し、初戦がPSVアイントホーフェンとの試合だった。数奇なことにPSVの監督は、名古屋を退任してサッカー界から引退を決めていたが、ロナルド・クーマンをバレンシアに引き抜かれて困っていたPSVに説得されて、そのシーズンだけの繋ぎという条件でチームを率いていたフェルフォーセンだった。

本田は、初めての海外での試合で、その海外移籍のきっかけを作った恩師と戦ったのだ。

 

 

結果が全て。

VVVはそのシーズンにオランダ1部リーグであるエールディビジに昇格してきたばかりだった。本田は加入当初からレギュラーとして起用され、14試合に出場し2得点という成績を残したが、チームは17位となり入れ替え戦に回る。そしてそこでADOデン・ハーグに敗れ2部降格が決定した。

8月に行われた北京五輪では3戦全敗の勝点0、得点も豊田陽平の1点のみにとどまった。

この大会では本田の「造反劇」が物議を醸した。第3戦のオランダ戦で反町康治監督が「オランダは巧いから深追いしなくていい」と指示を出したが、本田は試合後のインタビューでこう答えている。

「それはごもっともだけどオレの考えは違った。そんなに怖くない。圧倒できると思ったから前から行こうと。他の選手に話したら全員、それでいくとなった」

実際に、梶山陽平(FC東京)も「監督は前から行かなくていいといったけど、みんなで前から行こうと話した」と話しており、本田の「造反」は裏付けられている。大会前に「金メダルを取る気で行かなきゃ勝てるわけがない」とぶちあげていたこともあり、本田はスケープゴートにされた。

この試合、日本はグループリーグ敗退が決定しており、もはや何も失うものは無かった。反町監督は勝点1でもいいから何かを残してやりたいと思い、選手たちは思い切りやりたいと願った末のすれ違いだった。

北京五輪終了後、本田はVVVに残留する決断をする。そして、ある1つの思いを抱いていた。

「結果を出さなければ認められない。結果とはすなわちゴールだ」

翌シーズンの本田は変わった。2部開幕からゴールを貪欲に狙い続けた。そして実際に次から次へとネットを揺らしていった。そのシーズンは16ゴール13アシスト。堂々の2部リーグ優勝、そしてMVPを獲得した。シーズンの途中からはキャプテンも務めた。

1部に復帰した2009-10シーズンも本田は絶好調だった。前半戦18試合に出場し6ゴールを記録。本田の市場価値はどんどん上がっていった。

そして2010年の1月。VVVからCSKAモスクワへの移籍が発表された。移籍金は推定で12億円。実のところ、夏にもCSKAはオファーを出していたが、その時は断っていた。だが、本田はCSKAが本気で自分を必要としてくれていると感じたのか、冬にロシアへ行くことを選んだ。

当時のロシアは日本と同じ春秋制を敷いており、1月に移籍しても試合は無かった。本田のCSKAでのデビュー戦は2月のUEFAチャンピオンズリーグでのセビージャ戦になった。

3月のロシアリーグ開幕戦では、後半アディショナルタイムにチームの決勝点を決め、いきなり結果を残す。そして、セビージャとのアウェーでの2ndレグでは直接FKでのゴールを含む1G1Aを決め、ロシア勢初のCLベスト8入りに貢献。マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

2010年南アフリカ大会の出場を決める頃には、すでに日本代表の主軸となっていた本田だが、イビチャ・オシムから岡田武史へと引き継がれた日本代表の成績は振るわなかった。そんな中、W杯を1ヶ月後に控えたある日、本田は広島県を訪れていた。離婚した母方の祖父が亡くなり、同時期に病気がちだった母を心配したためだ。その前から頻繁に電話はかけていたが、W杯を前にして直接会う事で母を勇気づけたかったのだ。

2010年5月に行われたW杯前の最後の壮行試合で、韓国になにもさせてもらえず完敗を喫すると、岡田監督が日本サッカー協会に辞意を表明したなどという噂も流れた。そんな中、岡田監督はある決断をする事になる。本田をCFに起用する、実質的な0トップでW杯に挑むことにしたのだ。

いくら得点を取れるアタッカーに成長してきたとはいえ、まったく経験のないポジションである。だが、本田はそれに応えてみせた。大会直前のテストマッチではさしたる結果を残せなかったが、初戦のカメルーン戦では本田が決めたゴールを守りぬき、自国開催以外での初の勝点3を日本にもたらした。

続くオランダ戦は0−1の敗戦を喫したものの、最少失点に抑えたことで第3戦のデンマーク戦を「勝つか引き分けで突破」という極めて有利な条件で臨むことが出来た。

そして、そのデンマーク戦では大会で皆が苦しんでいた公式球「ジャブラニ」を、直接FKでネットに叩き込んだ2人目の選手になった。この試合では岡崎慎司へのアシストも記録してカメルーン戦に続くMOMに選出。日本の決勝トーナメント進出に貢献する。

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トーナメント1回戦の相手はパラグアイ。コレクティブに守りカウンターを得意とするパラグアイ相手に、日本はなかなかゴールを奪うことが出来ず、スコアレスのままPK戦へと突入し、5人目の駒野友一が外して敗退した。だが、この試合のMOMも本田だった。この大会で本田は「日本代表の中心選手」から「カリスマ」へと変貌していく。

 

 

モスクワ経由ミラノ行き。

2011年1月。カタールでアジアカップが開催された。新たに監督に就任したアルベルト・ザッケローニに率いられた日本代表の中心には当然本田がいた。この大会は盤石の戦いを見せられたわけではないが、劇的な勝利の連続で勝ち上がり、日本は史上最多4度目の優勝を成し遂げる。大会のMVPは本田だった。

そして3月11日には日本をあの未曾有の大災害が襲う。東日本大震災である。本田はすぐさま日本赤十字に5000万円を寄付したが公表はしなかった。本田は1995年の阪神・淡路大震災を経験していることもあり、東日本大震災にも積極的に支援を続けている。2011年3月29日には早くも災害支援基金「NOTICE of HONDA」を立ち上げ、チャリティオークションなどを通じて得たお金を寄付したり、フットサルコートを被災地に寄贈したりしている。

CSKAの監督であるレオニード・スルツキは、加入当初から本田をボランチでよく起用したが、後に本田を右サイドハーフに変更し、攻撃の自由を与えた。本田もそれに応えゴールを量産していたが、その時期から本田は膝の怪我に悩まされることになる。

翌シーズンには開幕から好調をキープしていたものの、謎めいた右足首の負傷という名目でチームを離脱。その後、長期にわたって治療に専念することになる。巷ではレーシック手術の失敗だとか、バセドウ病なのではないかとの憶測も流れた。チームからもウイルス性の風邪というニュースが一時出されたりもして、真実はいまいちはっきりとしていないのだが、とにかくこの時期を境に本田のパフォーマンスは落ちていった。

2012年6月。ブラジルW杯に向けてのアジア予選が始まり、そこで本田は復活を遂げる。初戦のオマーン戦を皮切りに、ヨルダン戦ではハットトリック、そして翌年の6月に迎えたオーストラリアとのホームでの決戦は、試合終了間際に得たPKをど真ん中に蹴りこむという桁外れのメンタルの強さを見せて日本をW杯に導いた。

2013年になると、これまで幾度と無く囁かれてきた本田の移籍が俄然現実味を帯びてきた。行き先はイタリアである。だが、ラツィオは移籍金に難色を示して獲得を断念。スペインやプレミアのチームも獲得を画策していたが、具体的な話には進展しなかった。

だが、裏では極秘裏に移籍交渉が進んでいた。2013年の夏の時点で、代理人であるエルンネスト・ブロンゼッティと兄弘幸は、CSKAとの契約が切れる冬を待ってACミランに移籍する方向で話をまとめた。そして、FIFAの定める交渉開始可能期間が来るのを待って、それを公表したのだ。

本田は異例の待遇を持って受け入れられた。移籍会見は単独で、しかも「Welcome 10  Keisuke 」という特別なロゴまで作られ、当日会見場に訪れた記者にはパンフレットまで配られていた。それもこれも、夏の時点で移籍が決定していたからこそだった。通常の移籍では、こんな準備をする時間などないのだ。

背番号は自ら10番を選んだ。本人曰く「10番を付けるチャンスがあるのにそれを逃す手はないでしょう」との事だった。小学校の卒業論文に書いた「イタリアのセリエAで10番」という夢を叶えた瞬間だった。

 

 

常に有言実行。

夢にまで見たACミランは、だが本田の思い描くものとは程遠い状況にいた。

まず、本田加入直後に監督のマッシミリアーノ・アッレグリが解任され、まったく監督経験のない現役選手だったクラレンス・セードルフを引退させて監督に招聘した。おそらく、ファビオ・カペッロの再来を狙ったのだろうが、結局15シーズンぶりにCL出場権を逃すという結果に終わる。

2014年6月に始まったブラジルW杯では、「自分たちのサッカー」を掲げて挑んだものの、直前になって遠藤保仁をスタメンから外すなど、ザッケローニ監督の采配にブレが見られて、不完全燃焼のまま終わる。それでも本田は、初戦のコートジボワール戦でゴールを決め、W杯における日本人の最多得点記録を更新した。

翌2014-15シーズンはフィリッポ・インザーギを監督に据え、シーズン序盤は好調に推移した。本田自身もゴールを量産して監督や周囲のマスコミを黙らせる活躍を見せていた。だが、徐々にチームが失速していくにつれ、本田もゴールから遠ざかり、結局前半戦にあげた6ゴールに留まった。

迎えた2015-16シーズン。またもや監督が交代し、シニシャ・ミハイロビッチを迎えたミランは、プレシーズンこそ本田をトップ下で起用することが多かったが、シーズンが始まると出場機会は減少、ウインターブレイクまで12試合に出場するものの、先発は僅かに5試合。イタリアのSkyが選ぶ前半戦のワーストイレブンに選出されるなど散々な内容だった。

10月にはチーム批判とも取られる発言が物議を醸し、イタリアのメディアは本田を「ミランの歴史上最低の10番」と非難。12月にもなると「ミラネッロではもはや幽霊のような存在。売ることすら出来ない」と、まさに針のむしろ状態だった。本田の発言は、すべてチームを変えたい一心から出てきていたのに、それらすべてが否定された。

だが、12月20日のフロジノーネ戦で先発復帰を果たすと、献身的に守備をしたり、味方のためのスペースを作ったりと、自分のアピールよりもチームを機能させる為に働くことに徹した。最初はそれが理解されずに評価は低めだったが、徐々に結果に繋がり始め、メディアの評価も好転してきた。なにより、ミハイロビッチ監督自身が、本田はミランにバランスをもたらす存在として認識し始めた。

そして迎えた第22節のインテルとのミラノダービー。先発出場した本田は、アレックスの先制点をアシストするなど3−0の勝利に貢献し、89分に退いた。欧州ではその試合で一番活躍した選手を、あえて試合終了間際に交代させることがある。観客のスタンディング・オベーションを促し、選手を称えるためだ。本田は万雷の拍手の中ベンチに下がった。イタリアのみならず各国メディアが本田を絶賛しMVPに選んだ。

もう本田に足りないのはただ一つ、ゴールだけだった。そしてその日はやって来た。

2月14日、第25節でジェノアと対戦したミランのスタメンに、当然本田の名前はあった。もはやミランは本田が機能させているとさえ言われていた。開始5分にバッカへのアシストを記録すると、迎えた63分にはゴールから30メートルの距離で迷わず左足を振りぬき、今シーズン初の、そして2014年10月のベローナ戦以来483日ぶりのゴールを叩き込んだ。

気がつけば、本田とともに加入した選手で生き残っているのは本田ただ一人だ。対戦したジェノアには本田とのポジション争いに敗れたスソやアレッシオ・チェルチがいた。ミラノダービー後のテレビ番組では、かつてミランの10番を背負い、本田に対する痛烈な批判を展開してきたズボニミール・ボバンですら「今夜の本田を褒めない訳にはいかない」と、ついに本田を認めた。

「良くも悪くも、いつも通り。自分の足で、もう無理だろうと思われていたところで、ひとつ山をまた越えた」

本田自身もジェノア戦の後こう語っている。

スクデットはともかく、CL出場圏内まで勝点差6と、ようやく前を走るチームの背中が見えてきた。そしてその復活劇の象徴として讃えられているのは、2ヶ月前には「もはや存在しているのかすらわからない」と叩かれていた本田だ。

常に高い目標を設定し、それを公言することで自らを追い込み、奮い立たせる力に変えていく。

最高かつ最大の目標は常に「W杯優勝」といってはばからない。

壁があったら殴って壊す。道がなければこの手で作る。

両腕に腕時計をしていることに対して聞かれても「誰が片腕って決めたん?」と、既存の考え方には縛られない。

そんな、どこにでもいる有言実行の男。

それが本田圭佑。