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Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

祖父の死と祖母の認知症で家庭が崩壊しかけた話。

2005年に祖父が無くなった。享年83歳だった。

自分は2歳の頃に両親が離婚して母に引き取られているので、父親の事はなんにも知らない。祖父が父親代わりだった。

祖父は一家の大黒柱でもあった。林業を営む祖父と保険会社に務める母とでは、もちろん母のほうが収入が多かったのだが、やはり家の大事なことを決めるのは祖父だった。

そんな祖父が亡くなり、我が家には大きな悲しみがもたらされた。祖父が実家を出てきて当時住んでいた家を買ったので我が家には仏壇もなかった。親戚付き合いもほとんど無くなったこともあり、自分にとって、そして我が家にとって、身近な人の死というのは祖父の死が初めてと言っても良かった。それだけに、ショックは大きかった。

それ以来、家の雰囲気が変わった。

母は、祖父がいなくなり、家を支えていかなければという責任感にとらわれていた。

本来ならば自分がサポートをしてやらねばならないのだが、同時期に自分も結婚を控えており、なかなかそっちまで手が回らなかった。当時の自分は交代勤務をしていたのだ。

そうこうしているうちに、祖母に認知症の兆候が現れていた。自らの半身である祖父がいなくなり、心にぽっかり穴が空いてしまったのだろうか。母は、「ばあちゃんの世話は私がするから、あなた達はあなた達の事をきっちり進めなさい」的なことを言った。自分はその言葉に従った。

今にして思えば、それが失敗の始まりだった。

祖母が認知症になってしばらくすると、潰瘍性大腸炎を患った。それで1ヶ月ほど入院したのだが、その間に一気に認知症が進行してしまい、夜は暴れ、昼は叫び、孫である自分のことすら忘れてしまうほど酷くなった。その後寝たきりになったことにより、祖母の要介護度は一気に5まで跳ね上がった。

自分たちは夫婦揃って交代勤務だったので、実質的に祖母の介護をすることは不可能だった。なので、昼間はヘルパーさんを頼み、夜は母が面倒を見るという体制が続いた。

結婚式も終わり、自分たちの事が落ち着いても、なかなか一度出来上がった体制に割って入ることは出来ず、母も「ばあちゃんのことはいいから、自分たちのことをしっかりやりなさい」と言ってきた。二度目の失敗は、この言葉に素直に従ったことだ。

母は祖母の介護でストレスをためていた。

夜中に叫び声を上げ、母のことを罵り、意味不明なことを口走る祖母の世話をするのは大変だったと思う。だが、交代勤務で昼間と夜間の仕事のためにコンディションを整えなければならない自分たちには、どうすることも出来なかった。そう言い聞かせていた。今にして思えば、それは逃げだったのかもしれない。最低な選択をしてしまったのかもしれない。

そして、ちょっとした事をキッカケに、母の方から「別々に暮らさないか」という提案があった。正直、日常生活での会話も減っていたし、祖父が亡くなってただでさえギクシャクしていた我が家で起きた介護問題は、そういう提案をされても特に何も驚かないような状況を作り上げていた。

アパートに引っ越してからは、母と祖母のことが心配だったが、自分たちの会社が倒産してしまったりして大変な状況になってしまったので、なかなか実家に顔を出すことが出来なくなった。

そうこうするうちに、今度は母が脳梗塞で倒れた。

介護疲れとストレスなど、色々原因は考えられたが、とにかく3ヶ月位入院することになった。幸い、発見から処置までの時間が30分ほどだったので、本当に軽度の麻痺ですみ、いまでは普通に日常生活を営めるようになった。

だが、祖母はどうにかして施設に預けなければならない。ソーシャルワーカーの人と相談してどうにか見つけてもらったのが、私立の老人ホームだった。月17万円の費用がかかる高額の施設だったが、背に腹は変えられずにそこに入居することになったのだ。なんといっても、特別養護老人ホームは800人待ちと言われたのだ。待てるわけがない。

3ヶ月後、母は無事に退院出来たが、祖母の世話をするのはなかなか難しかった。一時は自分たちが家に戻ることも考えたが、正直以前のように仲良くやっていける自信がなかった。母も「一人でできるからお前たちはお前たちでうまくやれ」と言ってきた。

幼い頃から母のいうことを聞いてきた自分だが、正直この時はどうしていいか悩みに悩んだ。だが、母は一度決めたら人の話を聞かない人間である。結局、家に戻る事は諦めた。母の方から「別々に暮らそう」と切り出してきた以上、母が納得しなければ家には帰れない。本当にそうなのかは今でもわからないが、とにかくあの時はそんな風に思った。

2011年7月20日。自らの誕生日に祖母は亡くなった。

祖父の時は、ぽっかり穴が空いたようになった我が家ではあったが、祖母の時は慣れていたのか、それとも介護の日々が終わったことの安堵が少しはあったのか、あの時のような空虚な雰囲気にはならなかった。

母は一人暮らしになった。麻痺は以前に比べれば随分と良くなっている。元々車が運転できるレベルの麻痺なのだが、最近は散歩などをして体力づくりをしている。それもこれも孫が生まれたからだ。孫を抱きたいがために頑張って運動をしているのだ。

自分に娘が生まれて、我が家に訪れた闇のようなものは少し晴れた気がする。

介護は大変だ。会津若松でもどんどん介護施設が出来てはいるが、それはほとんどデイケア専門で、老人ホームはあっても高額の費用がかかるところばかりだ。特別養護老人ホームに入るなど夢のまた夢の話である。

今回、消費税の増税が見送られたことにより、介護業界に回るはずだったお金が少なからず減ることになるだろう。いま元気に生きている人は特になんの意識もしないかもしれないが、待機児童問題と同じように、待機老人問題も深刻なのだ。そして、介護のストレスは時に家庭崩壊を招くこともある。

お前がもっと頑張れていればそうはならなかったんじゃないのかという声もあるだろう。だが、当時から心の病を抱えつつあった自分には、そういう判断は出来なかったし、全てを自分たちで完結させることが本当に正しい道なのかどうかもわからない。

ただひとつ言えることは、介護のストレスはある程度アウトソーシングできないと、本当に苦痛でしか無く、時には家庭環境をギクシャクさせてしまうことになるということだ。

母が介護を必要とする時もきっといつか来る。

その時に、自分はどういう判断を下せるだろうか…